山城壕

「助けてください」 入り口ふさがれた壕から2日響いた声 沖縄戦から75年、遺骨の一部見つかる

2019年度に県内で収集された沖縄戦犠牲者の遺骨は59柱(暫定値)で、過去3年で最多だった。このうち1柱は、家族5~6人が生き埋めになったとの証言がある糸満市束里の「山城壕」で今年2月末、45年ぶりに厚生労働省が収集した。県内には今も、2790柱が地中に眠ったままとされる。厚労省によると、山城壕で見つかったのは右すねの外側の骨(腓骨(ひこつ))。形質鑑定で人骨と鑑定されたが年齢層は不明。5人が生き埋めになったとの証言を基に1974~75年度にも同じ地点で3柱を収集したが、安全上の理由で中断。このほど、壕上部の岩石を重機で撤去するなどすれば安全確保できると判断し、地権者などに説明した上で再調査した。他に遺骨は見つからず、調査は今回でおおむね終了する方針。

山城壕は糸満市の束辺名(つかへな)公民館近くの山中にある。当時を知る山城住民の仲門キクさん(87)によると、「桃原」さん家族が避難していた。父は防衛隊にとられ、祖母と母、男女4人のきょうだいが壕にいた。糸満市史の世帯別戦災調査によると、山城で当時「桃原」姓は1家族だけ。戸主は「桃原蒲」さんで、家族8人のうち6人が同市域で死亡し、1人が軍人軍属として市域外の県内で戦没した記録が残る。 現在山城区長を務める仲門保さん(70)は、亡き父の忠一さん(享年84)から生前、桃原さん一家の話をよく聞いていた。 地上戦が激しくなる前の梅雨の時期、山城壕付近に米軍の砲弾が直撃し周辺が落盤。外にいて助かった末娘の「キヨ」さん(当時15、16歳)が、近くの壕「マヤーアブ」まで助けを呼びに来たため、忠一さんら数人が救助に向かった。砲弾は壕に直撃せず、土砂で入り口がふさがれたとみられ、中からは「助けてぃくみそーりよー(助けて下さい)」との叫び。しかし人力では岩や土砂を撤去できず、2~3日後に声は途絶えた。

沖縄タイムス+より引用(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/589357)