今日は、沖縄県糸満市字摩文仁にある「島守の塔」だべ。
この慰霊塔は沖縄県最後の官選知事「島田叡(シマダアキラ)」と戦没した県職員を慰霊したもので、1951年に県民の寄付により建立したんだべ
ポチ太郎
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ハチ公
ハチ公
官選知事ってなんですか??
現在は選挙で選ばれた人が県知事となるけど、現在のような地方自治制度が法整備されたのは1947年の戦後のことなんだべ。
それ以前は中央省庁の特に優秀な官僚を各県知事に任命して派遣していたんだべ。
島田叡は知事になる前は大阪で内務部長をしていたんだべよ
米軍上陸を4月に控えた1945年1月、泉守紀(イズミシュキ)の後任として沖縄県知事としてやってきたんだべ。
ポチ太郎
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ハチ公
ハチ公
そういう仕組みなんですね!
しかし、それだと土地に縁もゆかりもない人が県知事になるってことですか!!
県民としても「何も知らないくせに…」とか思う人もいそうですね…
そう思われてしまう知事もいたかもしれないが、少なくとも島田知事はそういったことはなさそうだべ。
「島守の塔」が県民の寄付で建立されたことや、現:奥武山公園の中には彼の出身地である兵庫にちなんで「兵庫・沖縄友愛グラウンド」という名前の多目的グラウンド、2015年には島田叡の顕彰碑も寄付金で建てられたばかりなんだべ。
ただの一時の知事でここまでされている知事は他に思い浮かばないが、こういった話を聞く限りは県民からは友好的に見られていたんだと思うんだべ
ポチ太郎
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ハチ公
ハチ公
今でも慕われているんですね!
グラウンドの名前になるとかも凄いですね!
「ハチ公グラウンド」とかも作られないですかね!?
そんなの造っても誰も得しないべよ。
島田知事は学生時代から野球部で活躍すると同時にラグビー部も兼部するようなスポーツマンだったんだべ
そのこともあって、戦後の沖縄での高校野球選手権予選会の優勝校には「島田杯」が贈られるんだべ。
あと、東京都文京区の東京ドーム内にある野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントにも島田知事の名前が刻まれているんだべ
ポチ太郎
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ハチ公
ハチ公
知事としての島田叡のことを聞く前に、プライベートでもめっちゃ凄い人なんだってことが分かりました…‼
知事としての島田さんの事を教えてくださいよ!
知事として沖縄に渡った時、青酸カリと日本刀、「葉隠れ」と「南洲翁遺訓」を持ってやってきたんだべ。
その頃は沖縄戦になることも現実味を帯びていたから、死を覚悟した赴任だったんだべ。
「葉隠れ」と「南洲翁遺訓」は、それぞれ「山本常朝(ヤマモトジョウチョウ)」と「西郷隆盛」による本だべ。
どちらも「武士としての教え」であったり、「人としての教え」についてが書かれた本なんだべよ
ポチ太郎
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ハチ公
ハチ公
確かに青酸カリと日本刀だなんて武士みたいですね!!
赴任直後から県民の北部疎開を進めたり、住民の食料を確保するために蓬莱米(台湾米)3000石を確保するために奔走したんだべ。
また、激務の中でも県民との交流も積極的に行った。
戦場になるにあたって陣地構築にも県民は動員されて疲弊する中、少しでも県民のためになればと県内での煙草・酒を増配を税務署と専売局に懇願したこともあったんだべ。
奔走する知事の姿を見てきた県民も、徐々に知事に信頼をもつようになったんだべ
ポチ太郎
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ハチ公
ハチ公
なんかもうお腹いっぱいってぐらい凄いってのが分かりました!!
自分の死が迫っている中、他人のためにそんなに動ける人は現代ではほぼいませんよ…
現代とは常識も何もかもが違うんだから安易に比べられることじゃないんだべ。
それでも島田知事は凄いとは思うが。
米軍が上陸すると、県庁職員と共にガマや壕を転々としながら仕事をしていくんだべよ。
現在の那覇市識名の識名霊園内にある「シッポウジヌガマ」は県庁として機能していたことから「県庁・警察部壕」とも呼ばれるんだべさ
ポチ太郎
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ハチ公
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そうなってくると好転するのは厳しいですね…
途中立ち寄った場所は確定されていないようだけど、首里の司令部が陥落して県庁も南部地域に後退、現:糸満市伊敷にある「轟の壕」で県庁の解散を宣言したのではないかと言われているべ
解散後、職員らに「生き残る」ように伝えて壕を出ていき、その後消息不明となったんだべ
ポチ太郎
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ハチ公
ハチ公
消息不明でも遺体ぐらいは見つかったんですよね!?
遺体は現在でも見つかっておらず、ボランティアによる遺骨捜索が行われているようだべ。
摩文仁にあるガマで知事と出会った等の証言があるけど遺骨も見つかっていない。
それでも推定の場所として「終焉之地」碑が島守の塔裏にあるんだべ
終焉之地碑裏には岩の裂け目と防空壕らしき穴が確認できるんだべよ。
ポチ太郎
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